武井里緒

夏になると君はいつも、自分だけがまわりから取り残されていく不安を感じていた。

毎朝のラジオ体操があった小学生時代の君は朝寝坊ばかりで休みの間中ずっと自己嫌悪に苛まれていたし、その後の学生時代の間にあったろくな予定のない一ヵ月半は君に青春の時間を無為にしているような罪悪感を与えた。

若さと楽しむことをセットにされた学生時代の夏休みは、だらしがなくて非社交的な君に屈辱に近い苦悶を与えたが、さて今はどうだろうか。社会人となった現在は昔よりはマシなのかもしれない。日々の労働を思えば夏の間に与えられるわずかばかりの休暇を休息のみに充てることに自責の念を覚えることもない。実際に、君は昔ほどには夏という季節に期待を抱いていない。そう、君はあの頃、夏の日々の自由な時間の中で何かが起こることを期待していた。それは、静かな夜のうちに生まれる朝露のような刹那的なきらめき、打ち上げ花火の爽快な爆発音からスタートする心を躍らせる出来事。君は意識的にか無意識的にか、いつもそれらを期待していた。いつの時も、何も起こりはしなかったが。君の不安、その自己嫌悪と罪悪感の正体は、自らが抱いた期待を果たせないことへの情けなさだった。今の君はもう無邪気に抽象的な「何か」を信じられるほど若くはなかった。しかしそれでもまだ、ふっと、「何か」の気配を感じ取ってしまう時がある。真昼の強い日差しを浴びた瞬間、祭囃子が遠くから聴こえてきたその時に、君は焦燥とも鬱屈ともつかないネガティブな感情に襲われる。まだ何もかもを諦めてしまうほどには年老いていなかった。君はこの夏を迎える直前に二十五歳になった。

夏が来た。だから何だというのだ。そう嘯いて君は今日もいつもの通勤電車に乗り込む。満員の車内にはむっとした空気が立ち込め、君の憂鬱は増大した。君は、人の間を縫って車両の中程へと移動を開始する。停車の度に激しい出入りのあるドア付近の混雑から逃れるためのいつも通りの行動だった。そこで君は、思いがけず素敵な発見をする。

君の進んだ車両の中央には美しい少女が座っていた。少女の前には僅かなスペースが空いていた。通勤電車に乗る中年サラリーマンたちは身に覚えのないトラブルで騒がれる可能性に怯えて、不自然ではない程度に少女との空間的な距離をとっているようだった。君はそのスペースに自分の身体を滑り込ませた。その行動は極めて自然に演じられたようだった。その証拠に目の前の少女も、付近の中年サラリーマンたちも君に目線一つ送ってはいない。君の欲望はまだ彼女や彼らに警戒さえされていない。君は胸のうちで密かにほくそえんだ。

少女は膝の上に置いた鞄に文庫サイズの本を乗せて読書をしている。リバティ柄のブックカバーがかけられている本の内容を探ろうとしたが、君の位置からは確認するのが難しかった。少女がページをめくる速度から考えると、この少女にとっては少し難解な類の小説を読んでいるようだが、時折溜め息をつくように手元から目線を外す様子を見ていると、彼女はこの小説には飽きてしまっているのかもしれない。ページをめくる右手には携帯電話とオレンジ色の切符が握られていた。毎日自宅から会社までの最寄り駅のみを定期で往復する君にとって、ICカード以外の乗車券を目にするのは久しぶりだった。この少女は普段はあまり電車を利用することがないのだろうか。今日は夏休みのお出掛けでいつもは乗らない電車に乗ったのかもしれない。そうか、夏休みだった。君は頭の中で了解する。そう考えると彼女が読んでいる小説も課題図書で仕方なく目を通しているだけのものなのかもしれない。

少女は概ねこれから友達と待ち合わせて遊びにでも行くのだろう。買い物にしては少し時間が早いから、博物館や映画館に行くという選択肢も考えられる。どちらにしても、夏休みの予定としては充分に楽しそうだ。君は、そんな彼女のスケジュールを勝手に想像しながら、昔の君のつまらない日々と比較して再び憂鬱を覚え始める。

嫉妬と欲望の混じる複雑な感情を胸に抱きながら、君は少女の小さな顔を上から盗み見ている。華奢な体つきをした少女だった。年齢は十四、五歳だろうか。マスカラとリップグロスだけの化粧が、如何にも覚えたてのメイクという感じで愛らしい。肌はファンデーションなど塗らなくてもきめが細かく、内側から輝くように明るい。年増の女が大金をかけて化粧品を揃えたところで、彼女なら五百円のキッチュなコスメティックでその何倍も可愛くなれそうだった。

君は、彼女を殺すことを決める。

君は誰にも秘密にしているが、好みの少女を見つける度に心のうちで少女たちを「妖精」と呼んでいた。そしていつも、その美しい妖精たちを標本にすることを想像した。

妖精は君のイメージの中で、鳥のような翼を持つ動物というよりも植物や昆虫に近い生き物だった。花や蝶が持つ血の匂いのしないどこか平面的な命の印象は、君に安らぎを与えた。それらは目や声で通い合うことを必要としない気楽な生き物のように君には思えた。君にとって妖精は、心に住み着く粘着性の性的幻想を一方的に注ぐ対象だった。植物や昆虫に近い「妖精」という生命は動物とは違い、君の目に反応せず、言葉にも応えない。君は唯、受動的な美しい生命の入れ物を求めていた。

もちろん君は、現実に目の前に現れる見ず知らずの少女にそれを求めるようなことはしなかった。相手に声を掛けることさえなかった。それは分別があるゆえに行動を起こさなかったということもあるが、単に勇気がなかっただけなのかもしれない。そうしたところで君が少女たちにとって性愛や恋の対象になどならないことは充分に承知していたからだ。触れることの出来ない少女たちを君は頭の中で現実の大きさより大幅に縮小し妖精として再現した。君の妄想にとって最適な妖精の大きさは、薬瓶に入る位か、せいぜいがラムネの容器におさまる程度のものだった。君は、目の前の少女をいつもの縮小法を用いて手の平の上に転がせるサイズにまで縮めた。

少女はシフォン素材の淡いグリーンのスカートを身に付けていた。君はそこから妖精の翅を想像する。ウスバカゲロウのように薄くセンシティブな翅を持った妖精の華奢な身体は既に君に捕らえられ、竹で編まれた円柱形の虫かごの中でじっと、自分の運命を待っている。君は繊細な翅を傷付けないように人差し指と親指で両の脇の下を摘みその前時代風の虫かごから妖精を取り出すと、顔の高さまで持ち上げた。薄い化粧が施された妖精の睫毛が黒水晶のような深い瞳の魅力を際立たせている。目の力は強いが、蒙古襞の張った末広形の二重瞼の所為で顔全体にはおぼこい雰囲気が漂っていた。君は妖精の幼い顔に笑みを向けると、指先に力を込め両脇から妖精の胸を圧迫した。小さな肺に詰まっていた息が一気に抜けた。ラムネの蓋をしているビー玉を瓶の中に落としたような子気味いい手ごたえがあった。胸の中身がすっかり消えて、妖精の上半身には真っ直ぐな背骨を底辺にした横向きの二等辺三角形が表れる。摘んだ胸を下方に向けて少し引っ張ると両の翅が開いた。

妖精の死骸からはユーカリのエッセンシャルオイルに似た芳香が感じられた。それは硬く清潔な匂いだった。

君は妖精の死に顔を確かめたくなって、その身体を仰向けにひっくり返した。妖精の翅の内側を見た君は軽い衝撃を受ける。自らの顔と肢体を囲むように大きく広げられた妖精の半透明の翅はその内側に魔法の色合いを携えていた。翅は光を織り込んだ波打ち際の水のように瞬間ごとに表面の色味を微妙に変えて映していた。蝶の中にはその身体に捕食性の天敵を威嚇するための模様を持つ種類がいるが、彼女のオーロラのような翅もそれと似た働きをするのかもしれない。誰かが彼女を捕らえようとする時、妖精が敏捷に身を翻し翅の内側に七色の光線を映したならば、天女の羽衣に包まれたような彼女の神々しさは充分に天敵を脅かすだろう。君は、万華鏡のようにうつり変わっていく儚い模様をいつでも楽しめるように翅の内側を正面に向けて妖精の身体を虫ピンで固定した。可愛らしい顔かたちは生きている時のままだった。翅はいつまでも透明な水のゆらめきをそこに映し、黒水晶のような瞳は凛とした霊気を放って見える。妖精は素直に標本に成っている。君はその出来栄えに上機嫌でいる。

現実の少女は君の目の前でせわしなく動いている。最初に読んでいた文庫本は途中からメールを受信したと思われる携帯電話の液晶画面と交互に読み進められていくようになり、今はもうしおり代わりにページの間に切符を挟んで口が開いたままの鞄に無造作に突っ込まれていた。標本になっている妖精とは違い、彼女は落ち着きの無い女の子のようだった。携帯電話でのやりとりが一旦途切れたと見えると左手にそれを持ったまま今度は化粧ポーチを漁り始め、絵の具のチューブのような容器に入った透明なオレンジ色のリップグロスを薄い唇に伸ばしている。化粧直しが終わると、次は英語の単語帳を取り出してパラパラとめくり始めた。裏表紙に「武井理緒」と名書きがされていた。君は妖精を収めた標本のラベルにその名前を記した。

電車が揺れた瞬間だった、少女が鞄の中に無造作に突っ込んでいた文庫本が君の足の間に落ちた。少女は身を屈ませて本を拾い上げようとしたが、落し物まで手が届かない。君は少女の手助けをするためにその場にしゃがみ込み足元の本に手を伸ばした。下方に傾けられた君の頭頂部の先に少女の足がある。君は少女の白い足を覗いてみたい衝動に駆られるが、それをそっと押し殺して拾い上げた本を彼女に手渡した。少女と初めて目が合った。彼女は申し訳なさそうな表情で君に目礼した。幼く愛らしい目元に黒水晶の霊気は感じられなかった。

少女は自分の失敗を恥ずかしがるような素振りで慌てて本を鞄の中にしまうと、今度は口のチャックをしっかりと閉めた。少女は俯きがちになって、再び手にしていた携帯電話に目を落としている。友達にこの状況を報告するメールでも打っているのだろうか。顔を上げることもなく忙しく指先を動かしていた。

君はその様子を見て、ほっと胸を撫で下ろす。君は先程、拾い上げた本を渡す前に少女がしおり代わりにしていた切符を抜いていた。

電車は君の降りる駅に到着した。複数の路線が通るこの駅で降車する乗客は多い。君もまた電車の乗り換えのためにホームへと降りる。流れる人波に紛れていた君は数歩進んだところで立ち止まり、たった今ドアの閉まった車両を振り返った。君はそのまま、去っていく電車を見送る。

それは君が想像した、今までで一番大きな標本箱だった。

君は展翅された妖精の姿を脳裏に思い浮かべる。切符を失ってしまった妖精は、もう外には出られない。巨大な箱は彼女を永遠に閉じ込めたまま朝の街並みを往復し続ける。持ち帰るには巨大過ぎるその箱を、君はいつもの縮小法を使って頭の中に納めた。

人の波が去っていった後のホームで、ふと壁の方を見遣ると設置されていた広告付きのミラーに君の顔が映った。それはせわしない通勤時間帯の雰囲気や、夏の爽やかな日差しには全くそぐわないいびつな笑顔だったが、誰も、君の顔なんて見てはいなかった。

君は乗り換えのホームに移動している集団から一人取り残されている。歩行の停止を解除して次に乗る電車のやってくるホームへと向かい始める。そんなに急がなくても乗り換えには充分に間に合う時間だ。いつもと何も変わらない君の一日が今日も始まる。